「俺には、恋愛感情とかそういったものは、よく分からない」


声には、戸惑いと悲壮感が滲んでいた。それでもいいさ、とりあえず試してみて。僕は笑った。それなりにうまく笑えたと思う。期待していたわけではない。全く期待していなかったわけでもない。…それでもいいさ。全然気にしてなんかいない。僕は嘘が上手いから、何でもない顔をつくることなんて訳なかった。

 

僕たちは世間でいうところの「お付き合い」というものをしている。彼は僕のことが好きなわけではなかったけれど、僕が彼の分まで彼を好きだから問題はない。そう言って腕の中に抱き込よせると、いつも彼は困ったように笑うだけだった。大好きな体温が胸いっぱいに広がって、大好きな匂いが鼻を掠めて、僕はたまらなくなって。それこそ壊れた人形みたいに、ただただ「好き」という言葉だけを降らせた。それでも、やっぱり彼は困ったような顔をして分からないんだ、と悲しげな声を零すだけで。

今では、僕から毎日溢れていたはずの「好き」は、どこかへ行ってしまった。おかげで彼が困った顔をすることもなくなった。ああ良かった、と思う。僕は、彼の笑った顔が好きなのだ。

 

 

 

 

あるとき、僕は唐突に思い至った。

「デートを、しようか」

彼の驚く顔なんて初めて見るかもしれない。二人きりの夕食どき(といっても、大抵この家では二人きりなのだけれど)、僕の突飛な提案に彼は心底驚いたというような顔をしてみせた。いちおう付き合っているんだからデートは基本中の基本でしょう、とわざとらしく拗ねた声を出すと「そうじゃなくて」と首を振った。

「その発想はなかった、」
デートか。

そう言うと彼は俯いて黙りこくってしまった。予想外の反応に僕のほうも狼狽してしまって、結局それきり会話は続かず仕舞い。黙々と目の前のカレーを胃に収めることに集中しなくてはならなかった。

それから夜中に彼が寝静まったのを確認して、グルメ雑誌やら大量の情報誌を引っ張り出してみた。パラパラとめくったページの中に、日当たりのよい小洒落たカフェと、その近くの静かな自然公園の写真を見つけた。彼が大好きな本を読むのにピッタリじゃないか。そう思うと、どんどんそこが一番いい場所のような気がしてきた。結局そのページに付箋を貼って、ベッドに入った。

寝ぼけて彼の寝床に潜り込んでしまっていたことに気がついたのは空が白んでからのことで。結局僕はベッドから出られなくなって、調子に乗ってクロロを羽交い締めに抱きしめて二度寝するという暴挙に出た。案の定彼は目を覚ました途端、目を見開いて体を硬くしてみせた、けれど。僕の顔を見上げただけで、何も言わなかった。

 

真っ直ぐな黒い瞳が、僕を見据えている。ひぃ、と内心悲鳴をあげる。急にいたたまれなくなって、逃げるようにしてベッドから抜け出した。しばらくして起き出したクロロは何か言いたげな様子だったけれど、その何かは、僕が淹れたまずいコーヒーと一緒に飲み下してしまったみたいだった。

チュンチュン、チュン、と鳥が雑談を始める。早朝5時半を指す時計。こんな時間に出かけてもどこの店も開いていない。まったく、僕はなにを浮かれているんだか。

 

 

 

お昼時、彼は案内したカフェをひどく気に入ってくれた。なにより、コーヒーが美味しい。豆が良いのだろうか、それとも挽き方だろうか。香ばしくて深みのある味わいはさほどコーヒーに詳しくない僕でも他との違いが分かったし、コーヒー通の彼をも唸らせる代物だった。一つ気になったことと言えば、せっかく彼の読書にと思ってここを選んだのに、僕の「好きなだけ本を読んで良いよ」という言葉がちっとも喜ばれず、むしろ眉間にしわをよせられたことくらいだろうか。どこか腑に落ちないまま、仕方ないので他愛もない話をして昼過ぎまで過ごした。ハムサンドも驚くほど美味しかった。

プラン通り公園に向かって、日向にあるベンチに二人して腰かける。うん、順調順調。なんだか恋人、っぽい。彼の機嫌も上々だ。(またしても「本でも読んだら?」という言葉は無視されたけれど。…まあ、気が乗らないならいいさ)特にすることもなく、僕たちはまた取り留めのない話を紡いで時間を過ごした。ちょうど桜が盛りのようで、微かな花の香りが心地よい。ふと横をのぞき見るとやわらかい風がクロロの黒髪を揺らして、ああ春なんだなあと思う。…好きだなあ、とも。久しく口にしていない響きに、なぜだろう。吐き気を覚えた。

その視線に気づいたのか、彼がくすぐったそうに笑った。それはそれは綺麗に、笑った。

ひどく、やわらかく。

 

どこからだろう、低い音が波をたてる。…心臓からだ。それから、ぞっとした。胸がしんしんと冷えていくのだ。すうっと。静かに。苦しい。息継ぎが出来なくなって、まるで呼吸をするかわりみたいに肺から言葉が転がり出た。


「やっぱり、」
君のこと、すきだ


しまった、と思ったときはもう遅かった。結局また言ってしまった。後悔の念からか、胸がずぶずぶと冷たくなっていく。春の日差しはこんなにも温かなのに。死ぬのかなあと思った。それもいいかもなあと思った。そうだった。


…彼は、僕が好きなわけではない。

 

 

 


僕はずっと、正面の桜だけを眺めている。彼の顔は見たくなかった。きっと、またあの困った顔で言葉を探しているのだろう。それでも、耳は塞げない。体が動かないのかもしれない。動かしたら動くかもしれない。でも動かない。また彼の悲しげな声が返ってくるのを待つのだ。聞きたくない。それでも、体が動かないのだ。いや、動かしたくないのかもしれない。

 

最初からそれでいいと言って恋人ごっこを始めたんだった。

なんで始めたんだっけ。…ああ、クロロが好きだからか。

で、なんで好きなんだっけ。…ああ、たまに見せる笑顔が好きなんだっけ。

で、なんでいまこんな気持ちになっているんだっけ。…ああ、今更また「好き」なんて言ってしまったからだ。

で、なんでそんなこと言ってしまったんだっけ。…ああ、彼の笑顔が好きで、やっぱり彼が好きだからか。


ぼんやりしていると、ふいに右手が温かくなった。…なんであったかいのだろう。違うのにな。冷えているのは心臓のほうなのにな。そっちをあっためてほしいのにな。見当違いなことを考えていると、隣からゆっくりと静かな音がした。…ちがった。声だった。それはそれは穏やかな声で。


「俺は、本が好きなんだ。」
そりゃもう死ぬほど。


彼だった。ゆっくりと息をついて、つづける。


「でも。お前が『本でも読めば』って言ってきたときさ、」

…なあ、そんなことよりお前と話していたい、って思ったんだよ。

息遣いが聞こえると同時に、微風にのって花びらが舞い散る。一度は散った花が、息を吹き返すようだった。
いつの間に彼の方を見ていたのだろう。まっすぐな黒い瞳が僕を捉えている。唇が動いて、儚げに揺れる瞳。
きれいだ。

 

 


…これがお前の言う、「好き」なのかなぁ。
 

 

彼は呟き、それ以上は何も語らなかった。静寂のなか、春が彼の頬を撫ぜる。
僕は、熱をもった右手がぼんやり霞むので、何度も瞬きをした。なぜこんなにも温かいのだろう。何のせいだろう。誰のおかげだろう。しかし一向に視界は晴れない。瞬きをすればするほど頬が濡れて、冷たくなってゆくばかりだ。気づけばいつのまにか心臓まで温かくなっていて、なんとか、「そういうと思ってたよ◇」と返した。すると彼は、少し面喰ったように、僕の顔を見つめて言う。

「お前って、」
嘘つくの、ヘタだな。

 

くしゃっとした彼の不格好な笑顔は、それでもやっぱりきれいだと思った。彼を好きでよかったなぁ、と僕も笑った。